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今月のメッセージ

「今こそ神のもとに帰るべき時」

​ー 実のならないいちじくの木のたとえー

ルカによる福音書13章1ー9節

日本キリスト教会  教師 久野 牧

 今日は13章6-9節のたとえ話を取り上げます。たとえ本体に入る前に、1-5節に記されている二つの出来事に目を向けておきましょう。1-3節には、ピラトが部下によって殺傷させたガリラヤ人の血による神冒瀆のことが記されています。4―5節に記されているのは、シロアムの池の近くにある塔が倒れて18人が死んだ事件です。主はこれらの事件で突如死を迎えた人々のように、わたしたちにもいつ終わりが来るか分からないことを示唆しておられます。突如として襲う死の時、即ち終わりの時に直面することのあるわたしたちの生き方を教えるために、主は「実のならないいちじくの木」のたとえを語られました。

 あるぶどう園の主人が、自分のぶどう園にいちじくの木を植えました。その目的は、いちじくの実を得ることでした。しかし実をつけてもよい3年が来たとき、主人は実を探しましたが全く見つかりませんでした。怒った主人は、園丁に「このいちじくの木を切り倒せ」と命じています。木を植えた目的を果たしていないからです。これはある意味では常識的なことです。それに対して、非常識なことがなされます。それは園丁が「今年もそのままにしておいてください」と特別に申し出たことです。主人の忍耐と寛容を求めているのです。園丁は不安を抱えつつ、しかし「来年は実がなるかも知れない」との期待を持っていました。主人の常識的なことと、園丁の非常識なこととが対比されています。

 ここから聞き取るべきメッセージは何でしょうか。ぶどうの木あるいはぶどう園は、神の民イスラエルを指しています。イザヤ書5章7節に次のように記されています。「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑。主が楽しんで植えられたのはユダヤの人々」。神の期待を受けたイスラエルの民でしたが、期待を裏切りました。それで神は、特別に新たに人々を選んで、神の業を推進させようとされます。ぶどう園の中に植えられたいちじくの木とはその民のことです。しかし、この人々も神の期待に応えることはできませんでした。

 そこで神は、たとえの中で執り成す園丁に相当するお方を、自らこの世に備えてくださいました。それが御子イエス・キリストです。主イエスは、神と罪ある人間との間を取り持つ和解者としての働きをするために人の世に送られた方です。その主は、ご自身の存在と命を懸けて、すべての罪人が神の許に帰るという実をならすために、死に至るまで仕えてくださいました。人はこの主イエスに結びついて実をならさなければなりません。にもかかわらず罪ある人間は神に帰るどころか、和解者イエス・キリストを十字架の死に追いやってしまいました。しかしこの死から復活された主イエスは、今は神の右におられて、罪人のために執り成しの業を続けてくださっています。その執り成しのゆえに罪ある人間と世界に対する神の忍耐は今も続いています。「今年もこのままにしておいてください」との園丁の言葉のごとく、主が執り成しの業を続けておられる「今年」がなお続いています。

 けれども、そのような時がいつまでも続くのではありません。1-5節に記されたように、死の時すなわち最後の裁きの時は思いがけなく来ます。それは誰にも予測することはできません。それゆえみ子イエスは、「今年もそのままにしておいてください」と執り成し続け、罪人の神への立ち返りを待っておられます。それに対するわたしたちの応答は、「神の忍耐の時」が続いている間に、神のもとに帰ること以外にありません。それが「今」です。神は、み子イエス・キリストをとおして、「わたしのもとに帰れ」と呼びかけてくださっています。今こそが、悔い改めの時です。世界全体が悔い改めて神に立ち帰ることが、御子イエスと神によって待たれています。世界の各地で起こっている悲惨な戦争、様々な残酷な出来事、自然の秩序を大きく乱してしまった人間の傲りなどを考えるとき、世界全体が悔い改めの実を結ぶことこそが緊急かつ不可欠なのです。今、すべての人々が神の許に帰ることができるように、心を込めて祈り続けましょう。終わりの時が来ることを知っている唯一の存在者としての教会の責任はとても大きいのです。

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