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説 教『 ぶどう園と農夫のたとえ 』 

 

 

マルコによる福音書12章1—12節

牧師  森下一彦

 

 

 

  1 節の冒頭に『イエスは、たとえで彼らに話はじめられた』とあります。『彼ら』とは、11章27節に登場するエルサレム神殿の境内にいる祭司長、律法学者、長老たちであり、周囲にいた群衆(私たち)にも語り掛けられています。

 『ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りやぐらを立てる、これを農夫たちに貸して旅に出た』と主イエスは語り始めます。このぶどう園は農民たちが自分で築き上げたものではありません。主人が作り、一切の設備を整えた後に農夫たちに貸し与えて旅に出ます。しかも、この主人は数人の僕たちと息子を連れて園を後にしたようです。農夫たちには、ぶどう園の管理がすべて委ねられたのです。

 

 さて、収穫の時になり、主人は僕たちを遣わして収益を求めますが、農民たちはこれに応じず、遣わされた僕たちが拒絶されます。しかも、僕たちは殴られ、侮辱されて、手ぶらで追い返されます。また、そのうちの何人かは農夫たちに殺害されました。これは農民による農地解放の物語ではありません。また、必要以上に取り立てようとする主人への抗議でもありません。ましてや、ぶどう園は彼らが労して耕したのではなく、彼らはぶどう園という“整った環境”を託され人たちでした。その彼らが、ぶどう園の主人を無視し、僕たちを拒否します。これが、旧約聖書に記される歴史そのものなのです。言うまでもなく、主人の許から送られてきた僕たちは、繰り返してこの世に遣わした預言者たちです。そして、最後に神の御子、イエス・キリストがこの世に遣わされます。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と主人は思ったのです。

 常識的に考えるのならば、この主人の行動は不可解です。すでに何人かの僕が殴られ、辱められ、何人かの僕たちは戻って来ませんでした。農夫たちに殺害されたのです。それにもかかわらず、この主人は『わたしの息子なら』と考えて、まるで暴徒化したようなぶどう園に遣わしたのです。

普通ならば危険な場所に息子を遣わすことはしないのだと思います。でも、ぶどう園の主人は自分の息子をぶどう園に送るのです。私たちの常識では主イエス・キリストという存在を理解したり、想像することもできないのです。

 

 しかし、主イエスが語るこのたとえをある程度理解した人たちが居ました。12節『彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたたえを話されたことに気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた』とあります。『彼ら』とは、エルサレム神殿の境内にいた祭司長、律法学者、長老たちでした。彼らはこの物語が自分たちへの「当てつけ」であることを悟ったのです。だからこそ、主を捕らえようとしますが、群衆を畏れて、その場を立ち去ります。彼らこそが、ぶどう園の農夫なのです。そして、この農夫たちの姿は私たち自身を示しています。私たちも自分のものではないぶどう園の利益をむさぼっている農夫たちなのです。

 

 私たち人間は整えられていたはずの自然環境を破壊しなければ生きて行けない存在なのかも知れません。二酸化炭素はオゾン層を破壊して地球を温暖化すると言われます。しかし、北海道で生活する私たちはストーブを焚かずに冬を過ごすことはできません。石炭や薪を焚いていた時代ならば、煙突から煙も出ますから、よりリアルに二酸化炭素を感じるかもしれません。またFFストーフは煙も出ませんからあまり自覚が持てません。オール電化の家でも同じです。発電所では燃料を燃やして二酸化炭素を放出します。ましてや原子力発電に依存すると、事故が起きた時には二度と取り返しのつかない事態が生じます。いずれにしても北海道では自然に抗って室内の温度を上げて過ごさねばなりませんし、今も教会でストーブを付けています。まるでこの大地が自分の物であるかのように生きているのです。食料も、経済も同じです。すべてを自分のためだけに浪費してはなりません。ましてや現在は今だかつて無いほどの核の脅威の中にあります。もし、仮に、大国が核ミサイルのスイッチを押してしまうと、この世のすべてに終わりが訪れることになります。私たちには本来、整えられた環境が備えられ、これを託されただけなのです。終末の時を生きる私たちにとって、ぶどう園と農夫のたとえは、二千年前と同様にとてもリアルな事柄なのかも知れません。

 やはり神様のなさることは不思議です。そんな私たちのために神の御子がこの世に遣わされ、すべての人を赦すために、キリストが十字架に架かったのです。

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