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今月のメッセージ

「神の“ひと言”が救いになる、との信頼」

ルカによる福音書7章1ー10節

日本キリスト教会 琴似教会  牧師 森下真裕美

​ 今日の話は、いわゆる“イエスさまによるいやし物語”です。この出来事の中でイエスさまによって癒されたのは、「病気で死にかかっていた」という百人隊長の部下ですが、この癒やされた人自身だけでなく、この部下の癒やしを願う百人隊長自身も、イエスさまと直接会うことをしていない、少し特殊な癒やし物語となっています。

 自分自身がイエスさまのもとに赴かない代わりに、この百人隊長は、「ユダヤ人たちの長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼みます。これは非常に珍しいことです。なぜなら、「異邦人」で「ローマの役人」であるこの百人隊長は、十分ユダヤ人から敵視される存在であるはずだからです。

​ ではなぜ、彼らがそのように珍しいことをしたか。それは彼らの「あの方(百人隊長)は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」(4~5節)という言葉で明らかです。 長い歴史の中で続けられてきた、ユダヤ人と異邦人との間の敵意や、立場の違いを超えた人間関係が、ここで作られていることを感じます。

​ さて、しかしこの百人隊長自身は、自らのことを決してそんなふうに思っていなかったようです。彼は友達を第2の使いとして送って、こう言わせました。

 「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。・・・ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」(6~7節)

​ この百人隊長の言葉は、イエスさまに対する恐れおののきと謙遜さと共に、確かな信頼と信仰の内に発せられた言葉でした。そして、その信仰と信頼とを、この人は、見ることのできる、イエスさまの奇跡のような“業”に置くのではなく、「ひと言」という“言葉”に置いていることが分かります。この人の、この“言葉”に対する信頼、信仰は、役人として、軍人として、彼自身が経験している「権威」(8節)に基づいています。百人の部下をもつこの人は、自分のひと言が部下をその通り動かすことを経験しています。それは、その「権威」に力があるからです。 「権威」というのは本来そのように、その背後にある、見えない、しかし確かな力に裏付けられていて、この百人隊長はイエスさまにその権威を見ていました。だからこの人は、イエスの「ひと言」が、確かに僕をいやす。その「ひと言」に救う力がある、と確信していたのです。

 ある人が、この百人隊長は、わたしたちを含む「すべての信仰者を先取りした存在」だと言っていました。わたしたちも皆、キリストがおられた時から2000年の時を経たこの時代に生きる信仰者として、この方と直接お会いすることはありません。それでも今わたしたちは、聖書を通して出会うイエスさまのことば、神さまの御業が、自分たちを生かし、支え、この世界をも導いていると信じています。だからこそ、こうして信仰を抱いているのです。

 つまり、わたしたちも、イエスさまに直接お会いすることはなくても、その言葉に信頼している者たちなのです。けれども、わたしたちを取り巻く、いつ終わるともしれない厳しい現状があります。それらがわたしたちに、“イエスさまの言葉”に表された力がまるで無力なもののように感じさせてしまうこともあるのです。けれど今日、この百人隊長の“イエスさまの言葉”に対するその信頼と信仰を知らされたわたしたちも、聞いた言葉は“本当にそのようになる”との確信をもって、イエスさまに「ひと言おっしゃってください」と求め続けていける者たちとされていきたいと願います。

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