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今月のメッセージ

「命の糧なるキリスト」

​マタイによる福音書14章13~21節

日本キリスト教会 教師 久野真一郎

 主イエスがガリラヤでなさった、いわゆる五千人の給食の出来事は、四つの福音書の何れにも記されている圧倒的恵みの出来事です。マタイによる福音書はこの出来事を、次の言葉で結んでいます。「すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった(20、21節)。」と。このガリラヤでの出来事は、一見夕刻になったので皆が空腹を覚えたというだけのことのようですが、この当時の歴史家は紀元46年と48年にパレスチナを襲った大飢饉のことを記しております。ヨセフスの「ユダヤ古代史」によればガリラヤ地方のとりわけ貧しい人たちは数年に亘って極めて深刻な状況に置かれました。15章32節以下に記されています四千人の給食の出来事では「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」とあり、事態の深刻さが響いて参ります。

 また紀元40年代、ガリラヤには主の民としての教会の群れが形成されつつありました。紀元46年と48年の飢饉により教会も深刻な状況に置かれましたが、同時にこの事態とどのように向き合いどのように仕えるのかが問われたのであります。五千人の給食の出来事においてはこの問いかけが、弟子たちに対してなされており、さらにこの問いかけは、今を生きるわたしたちにも向けられていることを心したいと思います。

 さて15節以下から分かりますことは弟子たちが群衆の空腹が意味している事態の深刻さをほとんど理解していなかったこと、またこの事態に対して群衆を空腹のまま解散させることしか考えていなかったということです。ですから主が「あなたがたが、彼らに食べる物を与えなさい」と言われたとき、彼らは自分たちの手の内しか見ることが出来ず「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」と答えるばかりでした。しかし彼らには思い起こすべきことがあったのではないでしょうか。すなわちかつてイスラエルの民がエジプトから導き出されたとき、四十年にも亘る荒れ野での日々を、天からのマナによって養われたこと、またギルガルの地が飢饉に見舞われたとき、神の恵みによりエリシャによって百人もの預言者たちが養われ、そのパン屑が十二の籠一杯になるほどであったこと(列王記下4章38節以下)です。

 それゆえ今、彼らが想い起こすべきこと、いや思い起こすべき方は主イエスその方に他なりません。18~20節を聴きましょう。「イエスは、それをここに(原文では「わたしに」が加えられている)持って来なさい。と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。」とあります。この主のお言葉には「取って食べよ、取りて飲め」と御自身を差し出してくださる聖餐の食卓が重ねられています。丁度長老たちが受け取ったパンと杯を陪餐者一人一人に持ち運んで行くように、弟子たちは集まって来た人々にパンの恵みを持ち運びました。「これによって生きよ!」と、命の糧が主の御手から一人一人の手に渡されたのです。

 すなわちわたしたちの真の養い手であり、命の糧であってくださる方が自らを差し出してくださるのです。この十字架と復活の主のこの驚くべき恵みは、「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と主が言われた、命の糧を持ち運び分かち合う教会の働きと限りなく深く結び合わされている!と言うことが出来るでしょう。この恵みを持ち運び分かち合う働きを全信頼をこめて主から受け取るわたしたちでありたいものです。

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