宗教法人 日本キリスト教会 北見教会
今月の メッセージ
「あなたがたは地の塩、世の光である」
マタイによる福音書5章13~16節
日本キリスト教会 琴似教会牧師 森下真裕美
「あなたがたは地の塩、世の光である」と語られるイエスさまの言葉は、よく知られたものの一つと言ってよいでしょう。この言葉を聞く時、多くの場合、「(あなたがたは)塩である」「光である」というのは具体的にどのようなことか、ということをまず考えてしまいがちです。けれども、まずその前に目を向けたいことがあります。それは、「あなたがたは地の塩である」「世の光である」とイエスさまがおっしゃっていることです。ここには、“あなたがたには、「地」そしてこの「世」に対する責任がある”と呼びかけておられるのを聞き取ることができると思うのです。つまり、わたしたち一人一人も、そしてその集まりである教会も、地上で起こるすべてのことや、そこに生きる世の人々から離れて、清らかに生きたり、信仰深い共同体であることを求められているのではなくて、むしろ、「地」とこの「世」に関わること、その中で生き、存在することを求められているのです。
ではその上で、「地の塩」「世の光」であることとはどのようなことなのか、イエスさまの言葉に尋ねていきましょう。まず「塩」についてです。13節以降の言葉から、「塩」であるために決して失われてはならないのは、「塩気」「塩味」である、とのイエスさまのお考えを受け取ることができます。食べることはできるけれど、味のはっきりしない食べ物に、「塩気」が加わることによって、それは驚くほどよい味に変えられます。そのように、「あなたがたは地の塩である」という言葉で言い表されていること、求められていることの一つは、わたしたちが、“神の御心”と、それを表す“神の言葉”という塩気、塩味を帯びているような存在として、この地上にあって、この地を驚くほど神の前に良いものへと変えさせる―そのような働きであり、役割であると聞くことができるのではないでしょうか。神の御心を知り、それを聞いて従う者たちの地上における存在が、その働きが、この世を神さまに対して、よりふさわしいものへと変えるのです。わたしたちも、そのようなことを担うことのできる一人として、この地上に今、生かされているのではないかと気づかされます。
次に「光」についてです。イエスさまが「光」に求められているのは、「照らす」ことであり、そのために「輝く」ことだと、15~16節の言葉などから聞くことができます。そしてわたしたちに求められているあり方、生き方もまたこのようなものであることは明らかであるように思うのです。けれど、大切なことを確認してきたいと思います。それは、わたしたち自身は、輝きを放つ「光」の大元、源では決してないということです。わたしたち自身のものではない「光」は別に存在しており、それを「輝くようにする」というのが、求められていることなのです。つまり、15節のたとえを借りるなら、「ともし火」を「升の下」ではなく、「燭台の上」という正しい場所に置いて、家の中のものすべてを照らさせるのが、「世の光である」と言われるわたしたちに求められていること、役割だということです。
では、そのすべてを照らす「光」は何なのか、どこにあるのか。かつて預言者イザヤは、その時代の南王国ユダを襲った恐れと闇と死の陰の中で、差し込んでくる大きな「光」を人々に指し示しました。そしてマタイ福音書の著者は、その「光」が、イエスという方において実現し、今、その光が差し込んできた、と語りました。この「光」こそ、「人々の前で輝かせなさい」と言われる、わたしたちの光です。そして、この方によって成し遂げられた、罪と死からの救いが、わたしたちの喜びとして、讃美として、感謝として、仕えることとして、人々の前で隠されずに表れることが、「世の光」として求められていることなのです。