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今月のメッセージ

「求めなさい」

マタイによる福音書7章7ー12節

日本キリスト教会 帯広教会 牧師 竹井 剛

1.受け身の恵み

 マタイによる福音書7章7節は、主イエス・キリストの有名な言葉です。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」この言葉は、一般的に積極的な生き方や思考法として解釈されがちですが、イエス様が本当に伝えたかったことは異なります。

 この御言葉の核心は、動詞が「与える」「見つける」「開く」ではなく、「与えられる」「見つかる」「開かれる」という受動形である点にあります。つまり、重要なのは私たちの積極的行動ではなく、それに応えてくださる神様の存在なのです。イエス様は、私たちに積極的思考を教えるのではなく、求めれば与えてくださり、探せば見出させてくださり、たたけば開いてくださる父なる神を知らせようとされているのです。

 

2.天の父の良い贈り物

 9-11節でイエス様は、人間の親でさえ子どもに良いものを与えようとすることを例に挙げられます。「悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」

しかし、ここで言われる「良い物」は、必ずしも私たちが求める通りのものとは限りません。使徒パウロの例が示すように、彼は「肉体のとげ」を取り除いてくださるよう三度も祈りましたが、神は「わたしの恵みはあなたに十分である」と答えられました(Ⅱコリント12:7-9)。神の視点での「良いもの」とは、私たちを高ぶりから守り、神への依存を深め、信仰を成長させるものなのです。

 

3.求め続けることの意味

 「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」という命令は、ギリシャ語原文では現在継続形であり、「求め続けなさい」「探し続けなさい」「たたき続けなさい」という意味です。私たちは往々にして、一度や二度祈って答えがないとすぐにあきらめてしまいますが、イエス様は熱心に、粘り強く、継続して祈ることを勧めておられます。

 マタイ15章21-28節に登場するカナン人の女性は、この「求め続ける」信仰の模範です。娘の癒しを求めてイエス様に叫び続けたこの女性は、最初は無視され、次に「イスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われ、さらに「子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない」とまで言われます。しかし彼女は、「主よ、ごもっともです。しかし子犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです」と答え、求め続けました。

 この女性の叫び「主よ、ダビデの子よ、私をあわれんでください」は、まさに「キリエ・エレイソン」(主よ、憐れんでください)という祈りです。私たちが神の前に持つ資格は何もありません。罪人である私たちにできるのは、ただ「主よ、憐れんでください」とすがりつくように祈ることだけです。

 

4.憐れみを求める

 イエス様は山上の説教で、私たちの罪深さと無力さを明らかにされた後に、この招きの言葉を語られました。7章前半では、他人の目の中のおが屑を見つけながら、自分の目には丸太が刺さっていることに気づかない私たちの偽善と裁く心を指摘されています。このような無力で罪深い私たちが、どうして神に何かを求めることができるでしょうか。

 答えはただ一つ、「キリエ・エレイソン」と祈ることだけです。私たちは神の前に何も要求できるものを持っていませんが、ただ神の憐れみだけを求めることができます。この女性のように、どんなに拒まれようとも、どんなにふさわしくなくとも、神の憐れみだけを求めてやまない姿勢こそが、真の信仰なのです。

 今日の御言葉は、私たちに積極性や自己実現を教えるものではなく、私たちの無力を認め、ただ神の憐れみにすがりつき、求め続けることを教えています。求め続け、探し続け、たたき続ける私たちに、天の父はご自身の知恵と愛に満ちた「良いもの」を必ず与えてくださいます。

 私たちの祈りが「キリエ・エレイソン」となる時、それは単なる願い事ではなく、神との生きた関係へと変えられます。祈り続けること自体が、神との交わりを深め、私たちを神に近づける恵みの手段となるのです。

 今日、私たちもこのカナン人の女性のように、自分の無力さと神の憐れみだけを握りしめて、熱心に、粘り強く、主の前に「キリエ・エレイソン」と祈り続ける者とさせていただきましょう。求め続ける者には、必ず天の父がご自身の時と方法で、最善のものを与えてくださいます。

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