宗教法人 日本キリスト教会 北見教会
今月のメッセージ
「和解と平和のための働き」
コリント信徒への手紙 II 5章16~21節
日本キリスト教会 教師 久野 牧
去る8月15日は、第81回の終戦記念日でした。わたしたちの国は憲法で、前文では「日本国民は恒久の平和を念願し…」と謳い、第9条においては「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と宣言しています。その憲法のもとで、なるほどわたしたちの国は戦後81年間、国際間の戦争をすることはありませんでした。しかし、その背後で、あらわな形で武力の増強が図られ、戦争への備えも着実になされてきました。わたしたちの国においては、戦争の出来る国造りがなされてきたことが現実であると言わざるを得ません。
平和は、口で言うほど簡単なものでないことは、わたしたちは知っています。平和とは突き詰めれば、人間の問題です。そうであれば、ひとりの人間が平和のために働くことの出来る基盤は何であるかをも深く考えなければなりません。その基盤を提供するものは聖書です。聖書が告げる平和を考える個人のレベルでの出発点は、「人はみな等しい存在である」という極めて単純素朴なことです。次のように記されています。「その兄弟のためにもキリストは死んでくださったのです」(コリント一、8:11)。キリストの十字架の死はすべての人のためのものでした。ここに平和を考える土台があります。
キリストはご自身の死をもって神と人との間の和解を成し遂げてくださいました。和解とは一般的に紛争当事者間の仲直りや和睦を指します。聖書ではその語は本来「交換」という意味を持っています。キリストの死に、それはどのように適用されるのでしょうか。それはこうです。「罪なきキリストは罪人に代わって神の裁きを受け、死に渡された。一方、罪人である人間は、キリストが人間に代わって神の裁きを受けてくださることによって裁きを免れ、神による赦しと命を約束された」。そこに<聖なる交換>と呼ばれるものが生起しています。キリストは死を受けられた、それによって人は命を受けるものとされた。まったく交換するに値しない罪人の命が、尊いキリストの命と交換されたのです。これが神のなさる赦しの方法でした。それによって神は、壊された人間との関係が回復されたこととして人を受け入れ、罪人を神の国へと招き入れる道を備えてくださったのです。そこから人と人との関係の修復も生まれてきます。
それは神の憐みと愛に基づくものです。キリストにおいて示されたこの神の愛のもとで、人はみな新しく造り変えられるのです。そうした神的事実を誰もが知っているわけではありません。神のなさるこのことが理解できない人々に対して、既にその和解の事実を知らされたわたしたちキリスト者は、どうすべきでしょうか。パウロは次のように述べています。 「和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」(18)。
そこで明確に語られていることは、神による救済の事実を人々に宣べ伝えること、和解を告げる言葉を世の人に語り広めていくことこそが、先に神の義を与えられた者たちの果たすべき責任だ、ということです。そうすることが、あらゆる領域における平和の礎となります。和解を告げる働きは、キリスト者の責任であり、教会の務めなのです。わたしたちは、そんなことをしても無駄であると考えがちで。平和の福音であろうが、救いの知らせであろうが、教会の小さな声はこの世の激しい嵐の中でかき消されてしまう、と悲観的に考えてしまうのです。しかしそうであってはいけません。1947年にドイツ福音主義教会が作成した『ダルムシュタット宣言』というものがありますが、その一部を引用いたします。「絶望をあなたがたの主たらしめるな。なぜなら、キリストこそがあなたがたの主なのだから」。
絶望することなく、この働きを続けていくことこそが、人類の平和と和解の土台を築かれたキリストに従う者としてふさわしいことであると確信して、力強くその道を歩んでいきましょう。「主よ、わたしたちを平和の道具として用いてください」というのが、いつまでもわたしたちの祈りであり続けます。
(2026年8月23日 平和記念礼拝説教)