宗教法人 日本キリスト教会 北見教会
今月のメッセージ
「生きた水」
ヨハネによる福音書4章1~15節
日本キリスト教会 帯広教会牧師 竹井 剛
本日の御言葉は、主イエスと一人のサマリアの女性との対話です。主イエスはユダヤからガリラヤへ向かう途中、あえてサマリアを通られました。ユダヤ人がサマリアを通ることは異例でしたが、聖書は「サマリアを通らねばならなかった」と記します。そこには明確な目的がありました。それは、主イエスがこの一人の女性に出会うためでした。
時は正午、女性が水を汲みにきました。通常、水汲みは涼しい朝に行われます。彼女が一人で、しかも最も暑い時刻に来たのは、人目を避けるためでした。彼女には人に知られたくない過去があり、街の人々から「罪深い女」とみなされていました。その彼女に、主イエスが話しかけられます。「水を飲ませてください」。この一言は、当時の常識を破っていました。ユダヤ人とサマリア人は交わらず、男性が公の場で女性に話しかけることもなく、ましてやユダヤ人の男性がサマリア人の女性に語りかけることは前代未聞だったのです。しかし主イエスは、民族の壁、性別の壁、そして「正しい人」と「罪人」を隔てる社会的な壁をことごとく越えて、この女性に出会われました。
それは、彼女が本当に必要としているものを、主イエスがよくご存じだったからです。主イエスは言われます。「もしあなたが神の賜物を知っており、また『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、そのはあなたに生きた水を与えたことであろう」(10節)しかし彼女は主イエスの言葉を、あくまでこの世の水の話としてしか理解できませんでした。私たちもまた、主イエスの恵みを自分たちの狭い経験や常識の枠の中でしか考えられないことがあまりにも多いのです。
そこで主イエスは、決定的な言葉を語られます。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(13〜14節)ここで対比されているのは二つの水です。一つはヤコブの井戸の水、すなわちこの世の水です。どれほど美味しくとも、それを飲めば必ずまた渇きます。もう一つは主イエスが与える「生きた水」です。それは一度飲めば終わりではなく、その人の内側で「泉」となり、絶えず新しくわき出る者です。彼女は対話を通じて、主イエスの言われる「水」が、喉の渇きを潤す物質的な水ではなく、心の渇きを癒すための水であることに気づき始めます。
彼女は言います。「主よ、渇くことのないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」(15節)ここで彼女が言う「渇く」とは、もはや喉の渇きではなく、心の渇きです。彼女の心の渇きとは、どのようなものだったのでしょうか。彼女は人目を避けて水を汲みに来なければならないような人生を歩んでいました。主イエスは後に、彼女に「五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」(18節)と指摘されます。彼女は人間関係に渇き、満たされない愛を求めてさまよっていたのです。しかし、この世の水である男性をどれほど飲んでも、また渇きは繰り返し襲ってきたのです。
これは彼女だけの問題ではありません。私たちの心の渇きもまた、さまざまな形をとります。しかしこの世の水をどれほど飲んでも、心の奥底にある渇きは決して癒されないのです。しかし、主イエスが与えてくださる水は違います。それは「生きた水」です。ヨハネの福音書は、この「生きた水」とは聖霊であると証ししています。主イエスを信じる者の内に聖霊が注がれます。主イエスが「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」(14節)と言われるとおり、外の状況がどのように変わろうとも、聖霊は私たちの内側から静かに、しかし確かに、私たちを潤し続けてくださいます。
そこに不思議な平安が生まれます。それは問題がすべて解決するという平安ではありません。むしろ、問題を抱えたままであっても、なお内側に確かな支えがあることを知る平安です。パウロは「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとを、キリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピ4:7)と語りました。この平安は、周囲の状況によって左右されるものではなく、私たちの内に住んでくださる聖霊から流れ出るものです。聖霊は私たちの心の奥深くまで静かに潤し、神の愛と平安で満たしてくださいます。神だけが、私たちの心の渇きを真に癒してくださるのです。
そして主イエスは言われました。「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」この水は外から汲み続けなければならないものではなく、内側からわき出るものです。主イエスが与える精霊は、私たちの心の内側にそのような泉を造られます。聖霊が共におられ、神ご自身が私たちの心の内に泉となってくださるのです。さらに、この水は私たちの中に留まるだけではありません。サマリアの女性がこの後そうであったように、この水は溢れ出て、周りの人々をも潤します。私たちが主イエスの愛に満たされるとき、その愛は自然と他者へと流れ出て行くのです。
心に渇きを抱える私たち一人ひとりが、主イエスから差し出されている「生きた水」を注がれ、私たちが、北見教会が神の愛の泉となり、この地域を潤すものでありますように。