「たまたま出会った出来事-善いサマリア人のたとえ」
ルカによる福音書10章25-37節
日本キリスト教会 教師 久野 牧
今日のテキストは有名な「善いサマリア人」の譬えです。譬えの内容に入るに当たって、まず二つのことを予備知識として確認しておきましょう。第一は主イエスと律法の専門家との問答によって示されるように、ユダヤ人にとって基本的に重要な戒めは、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」であったということです。この二つは、同じ愛の二つの現われでした。第二は、この戒めの中に示されている神とはイスラエルの神そのお方であり、隣人とはその神のもとで一つの民族を形成してきたユダヤの同胞たちのことでした。譬えに登場するサマリア人は、ユダヤ人から見れば、愛の対象でも隣人でもありませんでした。そういう状況の中で主イエスと律法学者との間で、隣人への愛の問題が取り上げられたのです。
譬えの場面は、エルサレムからエリコの町に行く途中の道です。その道を歩いていた「ある人」が、追いはぎに襲われて半殺しの状態にされました。そこにまず「祭司」が通りかかります。祭司とは神殿での祭儀において中心的な役割を担っているユダヤ人の宗教家です。ところがこの祭司は倒れている人のそばを通り、その様子を見たのですが、何もせずに道の向こう側を通って行き過ぎてしまいました。次にそばを通ったのは「レビ人」でした。レビ人は祭司の補助的な働きをする人で、これも宗教家です。彼も倒れている人を見ましたが、道の向こう側を通って行き過ぎました。主は、二人の宗教家が倒れている人を助けなかった理由については何も述べておられません。わたしたちは、この二人にあったかも知れない自己正当化や自己保身というものを想像しながら、わたしたち自身にも無縁ではないことを考えさせられます。
次に第三の人物が登場します。彼はユダヤ人が軽蔑しているサマリア人です。彼も先の二人と同じように「たまたま」そこを通りかかり、倒れている人のそばに来てその人を見ました。サマリア人は「憐れに思い、近寄って行った」のです。その動きの方向は先の二人とは正反対です。この違いはどこから生じるのでしょうか。三人とも倒れている人のそばに来て見ていることまでは同じですが、サマリア人は「憐れに思った」とあるように、心を大きく揺さぶられています。出くわしたある出来事に対して、彼は豊かな想像力を働かせて、自分のなすべきことを見出しています。それは感受性や他者への関心の問題であり、突き詰めれば愛の問題です。神の愛によって心が耕され、豊かにされ、感謝の内に生きている人は、他者の困窮や苦しみや悲惨に直面したとき、その心がその他者を生かす方向で反応することができるのです。
わたしたちは、「たまたま」という言葉に注目させられます。わたしたちは日常生活の中で、たまたま、「倒れている人」に出会うことがあります。しかも助けを必要としている人は「ある人」、すなわち自分にとっては匿名の人であり、関係の無い人です。そのような人にどのように関わるかといったことは、わたしたちの日常生活でも起こり得ることです。そして真に隣人を愛するとは、このサマリア人のように振舞うことだと主は示しておられます。
最後に、別の観点から考えてみます。それは半殺しにされた人に様々な助けを差し出すこのサマリア人とはだれかということです。結論から言いますと、このサマリア人をとおして、わたしたち人間に対する主イエスの姿が描き出されている、ということです。常に困窮と罪の重荷を抱えて、倒れているに等しいわたしたち人間に対して、主は、最も良き隣人として近づいてくださり、わたしたちが新しく生きる者となるために、あらゆる助けを与えてくださっています。サマリア人によって象徴されているのは主イエスです。わたしたちは、現実に出くわす諸場面で、「見て」「心を動かされて」「近づいて」「手を差し出す」ことがなかなかできない弱さを抱えていますが、主がわたしたちにそのようにしてくださり、またそうすることを主が求めておられるのでしたら、主に導かれて、わたしたちの小さな愛を差し出す者でありたいと願います。「行って、あなたも同じようにしなさい」との主のお声が響いています。