宗教法人 日本キリスト教会 北見教会
今月のメッセージ
「キリストは生きている」
マタイによる福音書28章11~15節
日本キリスト教会 帯広教会牧師 竹井 剛
マタイによる福音書28章は、主イエス・キリストの復活というキリスト教の中心的出来事に対して、人々がまったく異なる二つの反応を示したことを伝えています。一つは恐れと喜びをもって受け入れる反応であり、もう一つはそれを否定し隠蔽しようとする反応です。この対照的な姿勢は、復活の事実が持つ衝撃の大きさを逆に浮かび上がらせています。
イースターの朝早く、マグダラのマリアともう一人のマリアがイエスの墓へ向かいました。ところが墓の入り口の大きな石は転がされており、墓の中は空だったのです。そこで天使が現れ、「恐れることはない。十字架につけられたイエスは、かねて言われていた通り、復活なさった」と告げました。婦人たちは恐れと大きな喜びを抱えながら、急いで弟子たちに知らせに行きました。彼女たちの反応は、復活の知らせに対する素直な驚きと従順な姿勢を現しました。一方、墓の番をしていた番兵たちは、地震や天使の出現、遺体消失という前代未聞の事態を目撃し、震え上がって祭司長たちに報告しました。しかし祭司長たちは復活を信じる代わりに、長老たちと相談し、番兵たちに多額の金を渡してこう言いました。「『弟子たちが夜中に来て、我々が寝ている間に死体を盗んだ』と言いなさい。」さらに、もし総督の耳に入っても説得すると約束しました。彼らは復活という事実を認めると、自分の立場が崩れ、イエスを十字架に追いやった罪を認めざるを得なくなるため、あえて嘘を選んだのです。これは、自分を守るために真実を歪める人間の罪の深さを示しています。
祭司長たちが作り出した「弟子たちが遺体を盗んだ」という説は、極めて浅はかなものでした。第一に、任務中のローマ兵士が眠っているはずがないという矛盾があります。第二に、もし弟子たちが遺体を盗んだのなら、なぜ彼らはその後、過酷な迫害の中で「復活した!」と叫び続け、そのために命までも捨てたのか。人間は自分で盗んだ遺体のために嘘をつき、鞭打たれ、石打ちにされ、十字架につけられ、剣で殺されるほど熱心にはなれないでしょう。追及されれば嘘を白状するはずです。
実際、臆病で逃げ出したペテロが復活の主に出会った後エルサレムで大胆に説教し、疑い深いトマスは「私の主、私の神」と告白しやがて殉教したと伝えられています。またキリスト教を激しく迫害していたパウロも復活のキリストに出会い最も熱心な伝道者へと変えられました。この劇的な変化は、復活という事実以外には説明できません。
マタイが伝えるこの隠蔽工作の記事は、むしろ「復活が本当に起きたからこそ、祭司長たちは慌てて嘘をでっち上げねばならなかった」ことを教えています。嘘の存在そのものが、逆にキリストの復活という真実の重みを際立たせています。人間は嘘で真実を隠すことはできても、真実そのものを抹殺することはできません。復活は神ご自身の御業だからです。祭司長たちの作り話は一部に広まったようですが、福音は全世界に広がり、二千年を経てなお宣べ伝えられています。そして北見にも福音が届けられ、北見教会が建っています。そして皆さんは復活のキリストを礼拝しております。どちらが真の力を持っているかは明らかです。
「キリストは生きている」。これは単なる教えではなく、現実です。もしキリストが生きておられるなら、私たちの人生は決して無意味ではありません。罪も死も絶望も、すべてが最終的な力を持つわけではありません。どれほど深い悲しみの中にあっても、どれほど大きな失敗を抱えていても、キリストは生きておられ、私たちに新しい命を与えてくださいます。
この復活の主は今も私たち一人ひとりに問いかけています。「あなたはこのことを信じるか」と。番兵たちのように見てもなお目を閉ざすのか。祭司長たちのように聞いてもなお耳を閉ざすのか。それとも婦人たちのように、完全には分からなくても主に信頼して一歩を踏み出すのか。キリストは死を打ち破ってよみがえられ、今も生きて働いておられます。この復活の主を遠い過去の出来事ではなく、今ここに生きておられる方として受け止めていきましょう。新しい年度も、この復活信仰の恵みに生かされて歩んでいきましょう。